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当の川柳の良さをご理解なさって下さい。全日本川柳協会加盟吟社等の川柳人は、挙ってそれを願っていると信じます。そして他の短詩型文芸と共々にこの国を明るくして行こうではありませんか。

わが師のこと

秋山静舟
わが師、榎田竹林が他界されてもう二十数年にもなる。
月とゐる窓のひと時真人間
これは、昭和五十一年十二月に登呂遺跡で有名な登呂公園内に建立された比翼の句碑に刻まれた十七字である。除幕式の祝辞のなかで藤島茶六先生が、比翼の川柳句碑は全国唯一のものであろうと言われたが、おしどり川柳家としても知られた柳紫女夫人のおもいでのどこにもそばにうちの人が控え目に寄り添っていることは、いうまでもない。
竹林師は関東大震災を機に、東京芝の専売公社を辞めて帰郷、静岡川柳社を興して以来、その情熱を川柳に傾け通した。東京、大阪のちょうど真ん中へんという立地条件もあって、いわゆる六大家といわれる方々をはじめ、当時の著名作家が常時途中下車して竹林居は賜わっていたようである。また静岡で開催された全国川柳大会では、東海の名園と言われた浮月楼(徳川慶喜公別荘)に記念のお揃いの浴衣をしつらえ、大きな池のある庭園では仕掛け花火まで揚げての歓迎、そしてその散財を当時小切手で支払うといった豪勢なことまでやってのけたほどで、金は有る時に使え、が口癖であった。川柳家にもお金持ちはおおぜいあろうが、川柳のためにお金を使う、なかなか出来ないことではなかろうか。前述の句碑建立への浄財が予想を大きく越えたこともうなずけるのである。
東京時代、栗吟社の同人や川柳きやり吟社とのつながりなど、川柳修業時代と書かれているが、師のべらんめえ調も今は想い出となってしまった。手を取って川柳を教えるといったことはなかったが、他人様の陰口など極端に嫌ったことや、小言や指図的なことは一切なかった、そんな師のお人柄に惚れて川柳を続けてこられたように思えてならない。
また師は、仲間うちの川柳ではいつまでたっても社会には認められない、とよく口にされていた。今でこそ当然と言われることかもしれないが、官庁やマスコミなどへの働きかけにも熱心であったし、実行もしていた。因みに当市

 

 

 

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